講師略歴
講師略歴
池田浩己(ひろき)
1964年5月新潟県長岡市生まれ
1983年3月新潟県立長岡高校卒業1983年4月上智大学外国語学部イスパニア語学科入学(一般入試)
1989年9月予備校講師としてデビュー(東京、新潟、千葉、埼玉、仙台、横浜の予備校で2005年まで教鞭をふるう)
2003年1月池田英語塾・開設
英語以外の外国語を学びたくイスパニア語(スペイン語)を志望。
外国語を一から二カ国語が堪能なネイティブスピーカー、大学教授から学ぶという経験が、英語で悩む中高生への英語教授で生かされている。高校2年9月に同時通訳方式に出会い、50程度だった偏差値が高2の2月には71.2、
受験直前の高3の12月には偏差値78.8、新潟県2番 ・全国50番まで英語の成績が急上昇し、※第一志望の上智大(外)に見事現役合格。
(※第2志望上智大法学部国際関係法学科、第3志望早稲田大学政経学部、第4志望東京外大スペイン語学科、第5志望青山学院国際政経。早慶に落ちて上智に進んだのではなく、早慶に行けたが上智を選んだ人間です。私が受験生だった時には、早稲田と上智がほぼ同じ偏差値[若干早稲田が上]、上智の方が慶應より偏差値がかなり上な時代で[本当です]、ここに上智の伸び代を感じて上智を選びました。第一志望の上智に合格して浮かれてその後赤本何もやらずに早稲田を記念受験。英語と世界史は合格点だったと思いますが、国語が惨敗。「枝葉末節」の漢字を書いた以外は全く分からず。これではもちろん不合格でした。高3の12月には早稲田政経もA判定でしたので、国語を赤本でやっていれば合格できていたでしょうに。過去問をやることは大事です。まさか受験に関わる商売をすると思わなかったので早稲田政経に真剣にならなかった。真面目に国語の過去問をやって合格しておけばよかった。後悔です。早稲田政経には合格しても行かなかったので、それを土産にできた(=早稲田政経に受かったけど、上智にしたんだ、と言えた)。第4志望、第5志望は受験していません。第一志望に受かったので面倒くさくて…。なので1勝2敗でした[国際関係法学科は、世界史でやってなかった委任統治、信託統治がバッチリ出てしまい、その問題群が全滅。10点損をしたのが痛く、世界史で落ちてしまいました。英語と国語は合格点だったと思います]。担任からは受験するよう言われたのですが、東京外大は筆記ですし、どうせ赤本やらずに受けたので当時の偏差値は上智より下でしたが落ちる可能性が高かったと思います。青学は大丈夫だったと思います。受験しなかったのですが、当時配点が英語250点国語100点世界史100点。これで英語220点、世界史90点取れていたので、国語で酷い点数でも受かれていたと思います。「自分が受けると誰かが一人落ちることになる」と偉そうなことを考えてました。まぁ合格してたでしょうが、生意気さで、高3男子は子供です…。)
成績急上昇の受験生時代の経験と、予備校講師時代の生徒の質問に鍛えられ、成績急上昇の方法論・同時通訳方式の改良と普及に努め、速読速解力急上昇の秘訣を受講生にのみ伝授している。2017.11追記:主要メンバーとして働いた予備校は新潟予備校(基礎クラスの看板講師として頂きました)、早稲田予備校(生徒数が一番多かった西船橋校で看板講師にさせて頂きました。高田馬場校では、N理事に大そう嫌われまして高田馬場校では主要講座は持たせてもらえませんでした。アンケートは全科目の中で3位だったそうです。英語単独では教えてもらえなかったのは、さてどういう意味か?)、一橋学院早慶外語(アンケートは英語で1位でしたが、年功序列な予備校なので若手扱いのままでした。専任講師を時間講師より優先など、これらは予備校の方針なので当然のこと、仕方ないことです)です。他にも※早稲田アカデミー、秀英教育センターといった中学生対象塾にも大学受験を教える以前に在籍(早稲田アカデミーでは高校生の英語も担当。早稲田アカデミーの元講師の方が「予備校講師」という肩書きなのをよく目にしますが……「塾講師」では?私が予備校講師の時代は、塾講師の時給は2,000円がベース、予備校講師の時給は最低で6,000円がベース。これだけ時給が違うのに、同じ扱いされるのはたまったものではありません)。 大した力がないのに、在籍しているだけですごい先生という扱いになる三大予備校は性に合いませんでした。ここらは経営者の手腕はすごいのかもしれませんが、英語講師の力は大したことはありません。「鯨が魚じゃないのは…」とか「過去分詞」とかでしょ?「分詞」って時間の概念とは無関係なんですよ。無関係なのに「過去分詞」「現在分詞」って…。力無いですね。「進行形」は「未完了」?パクリですか?大学でスペイン語の文法で習ったものとはいえ、英語に導入したのは私が初めてなのですが。